釧路市では2例目の国登録有形文化財

2025年、本堂と旧納骨堂が釧路市では旧五十嵐邸に続く2例目、本行寺は「さっぽろテレビ塔」と同時に、「建設後50年を経過し、造形の規範となっているもの」として国登録有形文化財(建造物)として登録されました。本行寺の本堂は、1925年(大正14年)に老朽化していた本堂を建て直したもので、「和風を基調とし、外壁は目地を切って石造風となっており、外部の木鼻彫刻の精密な左官技術を示す良質な近代和風な本堂」歴史的景観に寄与するものとして評価され、旧納骨堂とともに、国登録有形文化財に登録されました。2022年の調査では、本堂の屋根裏から「棟札」が見つかり、工事を行ったのは、新潟の間瀬出身の宮大工「間瀬大工」が行ったこと、また計画当初の洋風建築の図面も見つかっており、それが近代和風に変更されて今に残っていることは、非常に貴重な建築物と言えます。

木鼻の「鼻」は「端」のことで、
肘木・頭貫・虹梁などが柱よりでぱっているところ。
間瀬大工の精緻な左官技術が光る木鼻彫刻
本堂内からは山門の先に海が見える
300人収容できる大きな本堂

石川啄木ゆかりの歌留多(かるた)寺

明治19年、岩手県のお寺の長男として生まれた石川啄木は、新天地で心機一転を図ろうと北海道へ。函館や札幌を転々とした後、釧路へやってきました。明治41年1月に釧路新聞社に入社。在籍は49日間という短い間でしたが、この期間に100余りの記事を書き残し、「しらしらと 氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな」「さいはての 駅に下り立ち雪あかり さびしき町にあゆみいりにき」など釧路にまつわる多くの歌を残しています。

本行寺は、菅原道真の末裔が代々受け継ぐお寺であり、明治41(1908)年3月3日に石川啄木が旧本堂を訪れ、「本行寺の加留多会へ衣川(佐藤)と二人で行って見たが・・・」と日記に書き残しており、寺の子どもたちとカルタを楽しんだという記録が残っています。

本行寺ではこの縁を後世に伝えるために、1986年、5代目住職・菅原弌也師と北畠立朴館長の熱意により本堂の一角に「啄木資料室」を開設し、翌年には「啄木資料館」と発展させました。以来、貴重な文献や資料をもとに、釧路と啄木を結ぶ文化の拠点として親しまれてきましたが、1992年に弌也住職が逝去されて以降、長らく活動を中断。しかし近年、北畠館長と現住職・菅原顯史の尽力により再開を果たし、館内には、啄木の足跡をたどる年表や文庫、くしろ啄木一人百首歌留多、初代住職・伊藤浄栄師時代の本堂模型など、数多くの資料を陳列しています。文芸評論家・故鳥居省三氏の肉筆原稿の展示や啄木講話の企画など、来館者に楽しんでいただける内容となっています。

石川啄木資料館の内観
石川啄木の本を集めた石川啄木文庫
全国から集めた啄木かるた
石川啄木の歌で制作したオリジナル一人百首かるた
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